お釈迦さまストーリー 基本編 其の四

 2021年11月7日 お釈迦様ストーリー 基本編 その四


出家その後 と降魔成道


  今回は、お釈迦様の出家後の動向と、いよいよ起承転結にあたる転の部分に入って行きたいと思う。
  お釈迦様は修行の道に入って行かれたが、南方仏教の伝説によると、出家後七 日目に、当時最大の国であったマガタ国の首都、王舎城に赴いたと言われている。 当時の都市は城郭になっており、城壁で取り囲まれており、外敵の侵略を考慮し、 そういう作りになっていた。 仏典のなかにある「城」といっても、日本の意味の城 とは違いがあり、大陸の人々の暮らしと日本民族とはやはり異なっていたようだ。
お釈迦様が王舎城に行って歩いていたら、ビンビサーラという当時の王様に見 つかった、『スッタニパータ』には、「目覚めた人ブッダはマガダ国の首都、山に 取り囲まれた王舎城に行った」と記述されている。当時は国どうしの争いも絶えな かったため、インド全体が統一されるまでは、防衛のため、そうした作りになって いたようだ。お釈迦様は托鉢のために赴いたところ、マガダ国のビンビサーラ王 は、高殿のうえに進み出て彼を見たとあるので、インドでは屋根が平らでその上か らあちこちを眺められたそう。
ビンビサーラ王はお釈迦さまを、発見すると、高貴な様子の聖者に興味惹か れ、すぐさま使者を派遣し、托鉢をしているお釈迦様の後をつけさせてみると、お 釈迦様は、都市を出て、王舎城の周囲にある5つの山のひとつにあるパンダヴァ 山、霊鷲山の山窟の中に住んだという。ビンビサーラ王は、使者の報告を受けて、 お釈迦様に会いに赴いたそうで、当時の習俗としては、聖者から話を聴く場合は呼 びつける事は王であってもしなかったそう。お釈迦様はそのときに、ビンビサーラ 王と初対面の挨拶を交わしたあと、ビンビサーラ王の軍事、経済援助を申し出を 断っている。

 ビンビサーラ王が「あなたは若くて青春に富み、これから人生の始まる若者で す。容姿も端麗で、生まれも尊いクシャトリヤ(王族)のようだ。像の群れを戦闘 とする精鋭の軍隊を整えてそこでも、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受 しなさい。」
ところがお釈迦様は「王よ、私は釈迦族の身から出家したのです。欲望をかな えるためではありません。諸々の欲望は患いのあることをみて、また出離は安穏で あるとみて、努め励むために進みました。わたしの心はこれを楽しんでいるので す。」
当時マガタ国とコーサラ国はガンジス川中流で対立しており、マガタ族と釈 迦族とで、コーサラを挟み討ちにしようという提案だったわけだが、お釈迦様は拒 否して、その後は幾人かの聖者を訪ねる。
まずはガンジス川ガンダギ東岸の都、ヴァイシャーリーに数百人の弟子を持つ アーラーマ・カーラーマを訪ね、のちに700人の弟子を持つウッダカ・ラーマプッ タを訪ねる。
二人の仙人はともに出家修道者で、瞑想にふけり、平安な境地を目指してい た。しかし、この二人の説を聞き、その境地に達したが、満足できなかったお釈迦 さまは、自分で修行することにして、それが苦行の道につながったようだ。
その後南に下り、ヒンドゥーの主神ブラフマー(梵天)の聖地、ガヤーに入る と、かつてウッダカ仙人のもとでともに学んだ5人の修行者と再会し、ウルヴェー ラーの苦行林に入ると、6、7年ともいわれる過酷な苦行を続けた。
  苦行の姿のお釈迦様像をみたら、それがいかに常規を逸した苦行かは想像がつく。
 それでも、「聖なる洞察」が得られない事を知ったお釈迦様は苦行にも快楽に も偏らない道を模索し始める。
  苦行を捨てたお釈迦様は、苦行林を出てナイランジャナー河で身を清めると、この土地の長者の末娘である村娘スジャータの差し出した乳粥の供養を受ける。
 それを見た5人の修行仲間は、お釈迦様を「堕落した」と見放し、ベナレス郊 外のサールナート(鹿野園)へと去って行く。

 お釈迦様は、最初、悟りをひらくための禅定に入る場所を、プラークボーディ 山(前正覚山)の岩窟に求められたが、十分な聖所とは言えなかったようで、次に 苦行林に近いブッダガヤーの大樹の下に定められた。ガヤーという所は、元々、ヒ ンドゥー教の霊場だそうだ。お釈迦様が悟りを開かれた後は、ガヤーの前にブッダ を名づけられたそう。
ナイランジャナー河で、身を浄められ、通行人の農民から、付近に群生するし なやかな青草、クシャ草(吉祥草)を分けてもらい、のちに菩提樹と呼ばれる無花 果の一種であるとされるアシヴァッタ樹の根元に、敷き詰めると、禅定に入られ た。 これは仏伝によると、「吉祥献草」というエピソードらしい。また、「アタ ルヴァ・ヴェーダ」によると、古来からインドではこの木を尊崇されていて、「神々 の住まいであって、不死をみるところである」といわれ、ウパニシャッドなどの聖 典では、不思議な霊樹といわれているのだそう。一度は行きたい場所である。
そうした信仰もある場所だったため、この木を選んで瞑想に入られたと言われ ており、そこで悟りを開かれたので、「菩提樹」という。「菩提」というのはサン スクリット語で、「ボーディ」悟り、の意味だそう。
  「悟りを開くまでは、たとえこの身が滅びようとも、決してこの座を立たない」と決意したお釈迦様は、東の方角を向いて、深い瞑想に入られた。

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 最古の伝承「スッタ・ニパータ」には、このときに魔王の軍団が現れて嵐を起 こし、魔王の三人の娘、愛執(タンハー)愛念(アラチ)愛楽(ラーガ)を差し向 けて、誘惑もあったという。
  このことを「降魔」と呼ぶ。仏典にはいろんな降魔の伝説があるようだ。
 悪魔のことを元の言葉で「マーラ」というそうで意味としては「殺すもの」精 神的なことも含めての意味らしい。お釈迦さまは、ネーランジャー河のほとりで修 行されており、そこでも悪魔に対して、お釈迦さまはひるむことはまったくない。 悪魔に向かって言われたことで、印象深い部分を抜粋、引用する。「汝の第一の軍 隊は欲望であり、第二は嫌悪、第三は飢渇であり、第四は妄執であると言われる。 汝の第五の軍隊はもの憂さ、睡眠であり、第六は恐怖、第七は疑惑であり、第八の 軍隊は見せかけと強情である。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自分を誉め称えて他人を軽蔑することとは、これらは汝の軍隊である。黒き魔の攻撃軍である」
 悪魔の妨害を退けたお釈迦様は、禅定に入られて7日目についに悟りを開く。 ときにお釈迦様、35歳。一説によると、その成道の日は12月8日のことだった と言われているようだが、今の太陽暦の12月8日ではないだろうと推測されてい る。ここで、お釈迦様が悟られたことは一体どういうことだったのか?という大命 題が起きてくるわけですが、これは仏典によっていわれていることがいろいろある ようだ。12因縁により真理を悟ったとか、過去生を見通したとかが後に体系化さ れているようだが、仏教学者の中村元先生による見解が、私個人的には、納得のい く意見だ。
 それは、本来仏教徒そのものが特定の教義をもっていないのだから、お釈迦様 自身、自分の悟りの内容を形式化して説くことを欲しなかったので、最もドグマか ら遠い教えではないかとされている。お釈迦様もイエス様も、教祖、ではない、と いうことを示唆されていると、わたしは理解する。

  でも、具体的にどういうことをお釈迦様は悟られたのか?ということが知りたい!と何故か非常な関心が身のうちに起こる方は、どうぞこちらのyoutube動画配信チャンネル「人間を超えた人のためのチャンネル」に飛んでほしいと思う。

 

 何故、我々の意識が、存在とは一体なんであろうか?とかこの世界の存在のし くみや万物の創世される宇宙とは一体、どういうメカニズムで成り立っているの か?といった真理への探求心が起こってくる方にも、おすすめだ。
というわけで、今回は出家後のお釈迦様の動きと、降魔成道に関してのお話を、ざっとまとめてみ た。 ご覧下さった希少な方がたは、きっと、お釈迦様やイエス様を混沌とした時 代、でたらめな私利私欲の聖者のようなリーダーも不在の社会のなかで、清らかな 希望の光としてその胸のなかに静かに輝き続けている方々だと思われる。まさに、 あなたのなかに、泥の中の美しい蓮の花が咲いているのだ。
 

たまたま観てくださった方も、もしかすると、この邂逅は偶然ではないのかも しれない。。なんてな余韻を残しつつ、次回また読んでくださることを願い、その 仏縁の広がりを祈願し、今回はしめさせてもらう。