お釈迦さまストーリー 基本編 其の六 (完)

 2021年11月24日
 

お釈迦様ストーリー 基本編 其の六

f:id:manifold8:20220315173231j:plain


   今回は、ようやく最終の章となり、涅槃に入っていく。
  一度はみたことがあるかもしれないお釈迦様の涅槃図、横たわるお釈迦様の周りに、たくさんの弟子達や在家の王族、神々が嘆き悲しむ様子がみられる。
 今生の別れとはいっても、やはり、無感情ではいられないわけで、この図をみ たときに、わたしは、キリスト教のお葬式の際に、天国でまた再会できるから、特 にプロテスタントたちは、皆笑顔で、別れの儀式に立ち会うというのを聞いて、す ごいなあと思った覚えがある。
 だから、涅槃図で弟子達が悲しみの情を露にしている図をみると、なんとなく 親近感や安心感が湧いてきたものだ。もちろん、菩薩達は、静かに見守っていたわ けだけれども。
いずれにしても、自然に湧き起こるのなら、、お別れに際し、寂しい思いを無 理に抑える事も無いのだなと。

f:id:manifold8:20220315181316j:plain





 冒頭から、余談になってしまったが、、さて、白象さんとともにいきましょう、 ということで。
 お釈迦様は、悟りを開かれてから、おおよそ50年間、説法活動で、いろいろ な場所を遊行されたりしていたわけだが、いよいよ死期を悟られたときに、アーナ ンダを伴い、最後の遊行に旅立たれた。、マガダ国のラージャグリハを皮切りに、 想い出の場所を辿る道のりでもあったという。

*注釈 

教典「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」に詳しく最後の旅路 のことが史実として収録されている。意味としては、マハー=大いなる パリニッ バーナ=釈尊が完全に入滅される スッタンタ=教典 パーリ語のものがよくまと められているという。

   なお、遊行というのは、「経巡りいく」という意味で、「遊びに行く」ということではない。
 お釈迦様は、遊行の旅路につくまえに、王舎城霊鷲山におられた。その頃、 マガダ国には王様のアジャータサットゥという人がいて、ヴァイシャーリーに住ん でいた非常に裕福な部族、ヴァッジ族を征伐しようと企てていた。それで、使者を だし、お釈迦様に意見をおたずねしたいという事で、大臣、ヴァッサカーラを向か わせる。
 大臣がお釈迦様に丁寧に挨拶したあとに、ヴァッジ族を攻め滅ぼす考えがある ことに対しての意見を伺ったところ、お釈迦様は、いい、とも悪い、とも応えずに、 逆に、7つの質問をする。
 一つめ ヴァッジ人はしばしば会議を開き、会議には大勢の人が集まってくる かどうか?
 二つ目 ヴァッジ人は共同して集合し、共同して行動し、共同してヴァッジ人 としてなすべきことを処理するかどうか
 三つ目  ヴァッジ人はいまだ定められていないこと定めず、すでに定められ ていることを破らず、昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動するかど うか?
 四つ目 ヴァッジ人はかれらのうちでの古老を敬い、喜び、あがめ、もてな し、そして、古老の言葉を聞くべきと思っているかどうか?
  五つ目 ヴァッジ人は一族の婦女、童女を暴力でもって連れ出し、捕らえ押し
とどめるようなことをしないかどうか?
 六つ目 ヴァッジ人は、都市の内外の霊場を敬い、尊び、あがめ、支持し、そ して以前に与えられ、以前になされた法にかなったかれらの供物を廃することがな いかどうか?
 七つ目 ヴァッジ人は、真人たちに正当な保護と防御と支持とを与えているか どうか。まだ来た事がない真人たちがそこにやってくるか、また既に来た真人たち は、領土の内に安らかに住まうことを願っているかどうか。
 

*注釈 真人とは、元は「アルハット」音を写して、阿羅漢、意味としては、 「敬われるべき人、あがめられるべき人、尊敬に値する人」という意味。

 お付きのアーナンダは、その全部に応えて、「其の通りです」というと、お釈 迦様は、「ヴァッジ人たちがこの七つを、守っている間は、かれらは繁栄し、衰え ることはないであろう」と言ったという。そう教えられて大臣ヴァッサカーラは、 「このうち一つを具えているだけでも、マガダ王はヴァッジ人に手をつけることは できないでしょう。いわんやすべてを具えているなら、なおさらです」と言って、 去っていったという。
 お釈迦様は、共和の精神と観念的な保守主義、当時のいかなる宗教をも承認す るという立場がみられると、仏教学者の中村先生は著書で解説されている。
 また、仏教の教化法も、相手の話した内容に対して、じわりじわると必要条件 を検討する、とあり、これは、独特な教化の仕方だと説明されている。
  否定も肯定もしない応じ方というのは、確かに知恵があり賢くないとできないやりかたのように思われる。また、いわれているように、相手に合わせて教化する、というのも、お釈迦様のすばらしいところのように感じられる。
 

 さて、具体的な旅路の様相をお話していくが、
一行が最初に訪れたのは、このときすでに故人であった舎利弗と目連の生地で あるナーランダー村を経由して、パータリ村に入った後、ガンジス川を渡って北を 目指し、ヴァッジ国へ向かわれた。
 ここのヴェールワ村を経て、商業都市のヴェーサーリー市にいたり、裕福な高 級娼婦で、市に対して経済的にも影響力のあったとされるお釈迦様の帰依者でも あったアンバパーリーの所有する林に招かれている。お釈迦様は、そこでしばし逗 留、説法して、厚い供養を受けたという。
 余談ですが、このアンバパーリーは、インドを代表する美女のように言われて いるそうだ。古代のインドでは、遊女でも社会的に地位があったそうで、お釈迦様 のす大変ばらしいところは人を身分や職業、地位、立場で、人を差別しなかったと いうところ、イエスさまも同様に、ユダヤの支配層からは蔑みの対象であった売春 婦に対しても、平等に接していらっしゃる。これは、やはり、解脱者の特徴でもあ るのだという気がする。何故かというと、地位のある人や権威のある人なんかで も、表向きな偽善はよくあるけれど、人々の内心のこころには、どこか優劣な意識 や偏見で他を扱ってしまう向きがあるような気がするので、結局、ほんとうにニュートラルで公平な境地になれるのは、仮想世界脱出マスターたちや、その予備 軍である菩薩たちしか、真になれないのかもしれない。

  *注釈 仮想世界脱出マスターに関する用語の意味あいについては
  Youtube『人間を超えたチャンネル』の小宮先生のお話をご参照ください。


 その後、一行は「竹林の村」という場所で雨季を過ごしていて、仏伝によると、 ここに滞在中に恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が走った、といわれている。
そうした中、お釈迦様がアーナンダに説いた素晴らしいお言葉があるので、引 用する。
「アーナンダよ。私はもう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過 ぎ、老齢に達して、我が齢は八十となった。たとえば、古ぼけた車が革ひもの助け によってやっと動いているようにわたしの身体も革ひもの助けによって長らえてい るのだ。・・・。この世で自らを島とし、自らをよりどころとし、他人をよりどこ ろとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあ れ」
 

 この強い確信は、自分を自分たらしめる理法、ダルマに基づいているという自 覚があり、人間のあるべき道、すがたに従っているからこその確信ということのよ うだ。人が導くのではなく、真理、真実が人を導く、というわけで、ダルマ(法) が導くというその確信のうえのその自分を頼るということ、という理解で、わたし はいる。
 例えとして、島というのは、元の言葉で「ディーパ」中州などの洲という意味 で、インドの環境背景からの例えだが、支那や日本には、それが灯明というたとえ として定着したようだ。
  日本の仏教でいうところの「自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」というわけである。
 雨季が過ぎて、いよいよヴェーサーリーを去ったお釈迦様達は、ガンジス河を 渡り、生まれ故郷を目指すが、結局はそこには行けないままに、この世から旅立つ こととなる。

  パーヴァーというところで、チュンダというカーストで言えば低い身分の鍛治 職人の供養を受けるのだが、そのときの食べ物にあたって、そこから身体を壊して 体力を失い、衰弱しながらも、旅を続けたと教典にはある。
  *注釈 食事の内容はなんだったのかは、わかってはいないようだが、漢訳では
きのことか、スリランカでは、豚肉?猪?とか諸説あるようだ。


 お釈迦様は、チュンダの食事の供養で、身体を悪くされても、決してチュンダ を悪くいうことはなく、心遣いのある言葉をアーナンダに話しておられるようだ。 人徳というより、お釈迦様は真の思いやりのある性質の方だったような気もする。
 そうして、お釈迦様は、いよいよご臨終の地となるクシナーラーへと向かわれ る。描写には、道中のお釈迦様のお疲れの様子の詳細があるようだ。アーナンダは 最期まで、よくお釈迦様に仕えた立派な弟子だなとも思う。
 ヒラニヴァティーという河向こうの林に赴くと、お釈迦様はアーナンダに告げ る。「さあ、アーナンダよ。わたしのために、サーラ双樹の間に、頭を北に向けて 床を敷いてくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」
  北枕の意味は正確にはわからないそうですが、日本にはここから、北枕は縁起
が悪いとなっているようだ。
   お弟子たちに向かい、最後のお釈迦様の説法はこうだ。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。私はか つてこのように説いたではないか。すべてのものは、愛するもの、好むものから別 れ、離れ、異なるにいたるということを。あらゆるものは、生じ、存在し、作られ、 破壊されるべきものであるのに、それが破壊しないということが、どうしてありえ ようか。アーナンダよ。長い間、おまえは、慈愛のある、人のためをはかる、安楽 な、純一なる、無量の、身と言葉と心との行為によって、向上し来れる人に仕えて くれた。アーナンダよ。おまえは善い事をしてくれた。つとめ励むことを行え。速 やかに汚れのないものとなるであろう」苦痛もあるだろうに、肉体的な死を迎える ときにさえ、お釈迦様は、相手を慰める、他者に即した言葉を言える、、これはほ んとうになかなかできないことではないだろうか。

  臨終の際にあたり、いろいろな人が訪ねてきたらしいが、ある修行者はお釈迦様に意地の 悪い質問をして、それに対し、お釈迦様はこうも話された。
「スバッダよ、わたしは29歳で善をもとめて出家した。わたしは出家してか ら、50年あまりとなった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外にありえ ない」
 お釈迦様は、そうして、やがて、入滅の時を迎えられた。 
 お釈迦様が亡くなった日は、正確にはわからないそうだが、日本では二月十五 日が涅槃会ということになっており、インドでは、その日は、入滅に限らず、お釈 迦様に関するあらゆることを祝うということだ。
 お釈迦様は人間として80年生きられたわけだが、それまで諸説あったなか で、クシナガラが永眠の地と何故わかったかというと、 1851年にこの地のス トゥーパ跡から、『涅槃寺』と刻印された銅板が発見されたことや、5世紀初頭に 建立と明記された涅槃像がヒラニヤヴァティー川の川底から見つかったことによ り、クシナガラだと証明されたという。
 この地も、遺跡公園として、お釈迦様の聖地とされていて、大涅槃寺に涅槃像 が安置されている。ここから、1kmほど東に進むと、ラーマーバル・ストゥーパ、お釈迦様が、荼毘に付せられたという荼毘塚がある。

 

 お釈迦様の生誕の地、ルンビニー、真理を悟ったブッダガヤー、初説法の地、サールナート、そして、永眠されたクシナガラ・・・、お釈迦様に帰依している方々 と同じように、いつかは訪れたい場所である。
 今回は、涅槃がラストということで、釈迦八相図を道案内にしながら、どうに か終えることができた。お釈迦様の歩まれた道を、おおまかではあるが、学ぶ事 で、お釈迦様が、アーナンダに向けて言われた励ましの言葉を胸に、わたしも学び を続けていきたい所存だ。
最後まで御視聴いただきまして、ありがとうございました。。。

 

f:id:manifold8:20220315173053j:plain