お釈迦さまストーリー 基本編 其の三

 お釈迦様ストーリー 其の三

                                2021年10月25日

四門出遊 出家について

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   お釈迦様の実母であるマーヤー夫人は、生後ほどなくして亡くなって、マーヤー 夫人の妹である養母に育てられながら王族の一員として、カピラ城で文武に渡り、 お釈迦様は英才教育を受けることになる。古い仏典には、お釈迦様の幼少時のこと はあまり出ていないようだが、後代の仏伝に、彫刻などで表されるようになった。 お釈迦さまの習った学問は実学であり、当時のバラモンのする学問はヴェーダ聖典 を丸暗記することで、先生が暗唱することを聞きながら憶えるという学問だった が、お釈迦様のした学問は、文字をかいて暗記する学習法だったようだ。

 紀元前800年頃に西アジアフェニキアからインドに文字が入って来ていて、主 に、商人が文字を使用していたとし、古代のインドで商人が多かったのは、仏教徒ジャイナ教徒だったようで、実学は商業に使われていたということで、お釈迦様 は、実学を学校で習っていたようだ。今でいう家庭教師のような人を宮殿に呼んで いたわけではないのは、興味深いところである。
 お釈迦様の暮らしは物質的には大変豊かに恵まれていたようだが、宮殿から外出しようとはせずに、その心には無常感が満ち、苦悩が深まるばかりだったらしい。
 パーリ語聖典から、後年のお釈迦様の若かりしころの追憶を述べたシーンから引用しよう。
「私はいとも優しく柔軟であった。」
これは、身体が柔弱で華奢であった、というくらいの意味らしい。
「わが父の屋敷には蓮池が設けられており、そこには、あるところには青蓮華が植 えられ、あるところには紅蓮華が植えられ、あるところには白蓮華が植えられて あったが、それらはただわたしを喜ばせるためになされたのであった。私は良い香 りのするカーシー(ベナレス)産の栴檀香(せんだんこう)以外は決して用いな かった。私の被服、下着もカーシー産であった。邸内を散歩するときにも、寒さ、 篤さ、塵、草、夜露が私に触れることのないように、実に私のために昼も夜も、白 い傘蓋(さんがい)がかざされていた。その私には三つの宮殿があった。一つは冬 のため、一つは夏のため、一つは雨季のためのものであった。それで私は雨季の 四ヶ月は雨季に適した宮殿において、女だけの伎楽に取り囲まれて、決して宮殿から降りたことはなかった。他の人々の屋敷では、奴僕、庸人、使用人にはくず米の 飯に酸い粥をそえて与えていたが、私の父の屋敷では、奴僕、傭人、使用人には白 米と肉との食事が与えられていた」と回想されている。 
   インドでは蓮の花がとても珍重されており、めでたい縁起のよいお花であって、 また、お金持ちの家の池は蓮池だったようだ。余談だが、インドの池の形は日本と は異なり、真四角だったということ。日本の池は、主に不規則な形だが、シンメトリカルかとかは、民族により、審美眼がちがうのかもしれない。我々日本人は、不自然というか、人工的に感じてしまいがちな気がするが。
 日光の直射が強いインドやスリランカは日傘があたりまえのようで、高貴な方の 場合はお付きの人が上から傘をさしかけるようだ。そのアイデアは仏教にも取り入 れられて、お寺の仏様の上には傘蓋がかけられている。
 とにかく、お釈迦様は身分が高い子どもにありがちだが、気が優しく、身体は強 いわけではないということは、大切な跡取り息子として温室育ちのように育てられ ていたんですね。。
 そして、恵まれている立場に関わらず、お釈迦様は、宮殿の暮らしに漫然とした 憂いを感じていた。人によっては、何故、お金持ちの家に生まれて、憂鬱な気持ち が起こるのか、、理解しがたい方もいるかもしれない。でも、やはりお釈迦様は年 若い時点で、既に、人生の本質をわかっていらしたように思う。
 その憂いを絶つために、父王は、お釈迦様が16歳のときに、従兄弟のヤショーダラーと結婚させた。ちなみに妻であるこの方の名前の意味は「名誉、誉れを保つ」で、実際の名前かどうかは説がいろいろあるようだが、意味自体は、なんとなく、自尊心が高い人のイメージをもってしまいますね、、。まあ、どうなのか。(後に彼女も息子もお釈迦さまに帰依して解脱します)
 婚姻の年齢に関しては、我々の感覚ではあまりに早婚な気がしますが、昔は寿命 の長さも関係して、所帯をもつのは若いほうがよかったのかもしれないし、
 あるいは、高校生くらいなら性の目覚めの時期、特定の女性との結婚は生物学的な 意味でも、理にかなっていたのかもしれない。青春の悩みなんてなものは、特定の 女性との交流がその憂さをはらせるものだろうと考えたというのは、王であっても ひとりの父親としての愛情だったのかもしれない。
 だが、お釈迦様は、当然ながら普通のティーンエイジャーとは違っていた、その 頃から、既に人間の本質について深い思索や考察、洞察力が長けていた。
 

 有名なエピソードでカピラ城の四つの門を出たときの話がある。

  はじめの東の門を出たら、外でやせ衰えた、杖をついたよぼよぼの老人に出くわ したことで、老いの苦しみを知り、南の門を出ると、重病で苦しむ男がいて、そこ では病の苦しみを知り、更にあるとき西の門を出たら、その外では死者を前に嘆き 悲しむ人の姿を見て、死の恐怖を知った、、。そうした三つの苦しみを父に打ち明 けると、王は息子が苦しみを忘れられるように、連日饗宴を開き、城門には常に見 張りを置き、その行動を監視したが、お釈迦様はその監視の目を逃れ、北の門から 出てみたら、そこでひとりの出家者、修行者と出会い、世俗を捨てることで、苦し みから離れたその姿に、強く心を動かされたという。
 これが『四門出遊』のお話ということで、たんなる伝説でまとめられた話かどう かはわからないが、お釈迦様という人は、早熟であり、若いときから物思いにふけ り、生命の本質というものを深く思索され、また外の木陰にあって、静かな瞑想を 習慣にされていたように思われる。
  さて、ここから『出家』に入っていきますが、若く美しかったであろうヤショーダラー夫人も、一人息子のラーフラも、お釈迦 様を世俗の人として、永久にとどめておく力はなかったようだ。優しいお釈迦様は 当然、愛情の人ではあったとは思うけれど、真理の探究という大仕事、それに到達 するということは、普通の家庭生活の営みのなかでは、かなり難しい面があったこ とは、わたしのような凡人でも容易に想像はつく。家庭というのは、漢字では家の 庭とかくように、寛げる居場所をさすわけで、修行者が寛いでいられる、というの は、やはりちょっと無理があるように思う。苦行は必要は無いとわたしは思うけれ ど、真理の探求や解脱、悟、という道は、家庭人の安楽とはやはり異質な場である ように感じる。求道者にとっては、家庭はある意味では、その営みにおいて要求や 欲求に対する無用な自己犠牲を強いられる場にもなりかねないからだ。
 お釈迦様の憂鬱は、このまま真理を探究しないで、家族の愛情に応えるだけで、 あるいは権力のある立場で、歓楽をほしいままにできる今生の人生を終える事に対 する一種の焦燥感だったのかもしれない。
 29歳のときに、ついにお釈迦様は、俗世から離れる決意をされた。一説には、宮殿のそこかしこに、踊り疲れた侍女たちが、あられもない姿で寝入っていた姿をみたお釈迦様は、一時の快楽の虚しさを痛感し、また死骸のように横たわる侍女達の様子に死を観じて、出家を決意したとも言われているようだ。ただ、古い聖典にはこのことはあまり出ていないようだ。

  出家した時の状況は、お釈迦様自身、次のように述べられている。
「比丘らよ、私は実に道を求める心を起こして後に、まだ若い青年で会って漆黒 の髪あり、楽しい青春に満ちていたけれども、人生の春に父母が欲せず、顔に涙を 浮かべて泣いていたのに、髪とヒゲをそり落として袈裟衣をつけて、家を出て出家 行者となった」
 昔のインドでは、人生には三大目的、あるいは四大目的があるといわれていて、 愛欲、実利、義務、解脱ということらしいのだが、解脱が入っているところは、興 味深いところ。現代のインド人はどうなのかは、わからないが、日本人の高齢者の 感覚のなかに、晩年はお寺参りや神仏を拝んでこの世を終えようとという方が多い とは思えないが、どうだろうか。
 『カウティリヤ実利論』という本によると、妻子、親族に対する扶養の義務を規 定しており、妻子に物を分たずに出家する事を禁止しているのだそう。お釈迦様も この規定には従って出家されたのだと思われるが、お隣にはコーサラ国の脅威など もある中、一族の将来を考えてみたら、いずれ釈迦族の王になる人が出家するとい うのは、かなり勇気のいる決断だったように感じる。
「自分は善を求めて修行の生活に入った」と古い詩の文句にあるそうだが、その「善」というのはもとの言葉で「クシャラ」というそうで、「有能」という意味もあるということで、「人生のほんとうの意義を追求する」などの意味にも解されるということである。
 そうして、お釈迦様は、ある晩にかねてからの望みを実行する。御者チャンナに 命じ、ひそかに愛馬カンタカを用意させ、就寝していた妻ヤショーダラと息子ラー フラに別れを告げると、御者と共に静かに城を後にした。城の門は1000人の兵 士に護られていたというので、気づかれずに出るのは大変だっただろうと想像がつ く。それからお釈迦様はアヌーピヤ林に入り、身につけていた装飾品を外して妻子 にと託し、別れを惜しむ御者と愛馬を城に返し、林の奥に分け入って地元の猟師の 粗末な衣装と自分の衣を交換し、剃髪師に髪を落としてもらい、師を求めて修行の 旅に出発した。もちろん、父王はその出奔を嘆き悲しみ、幾度も息子を説得し連れ 戻そうとしたが、お釈迦様の決意は固く、その思いを覆すことはできなかった。
 

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では、本日はここまでとし、次回は出家後のお釈迦様の修行生活の動向を追って いき、降魔成道に入っていきたいと思う。
     

  

お釈迦さまストーリー 基本編 其の二

 2021年10月2日

 

お釈迦様ストーリー 其の二

 今回はお釈迦様ストーリー其の二ということで、大まかに降誕と出家にまつわ るお話になります。
 お釈迦様がこの世に誕生したのは、紀元前463年頃と言われている。日本で も里帰り出産など昔からあるが、お釈迦様の母親、マーヤー夫人も、コーリヤ族の の暮らす故郷、デーヴァダハに戻りたいと、夫のシュッドーダナ王に申し出、周到 な準備のもと、帰省することになった。従者に輿を担がせ、多くの侍女や警護の従 者を伴わせたようだ。

 

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 一説によると、里帰りは出産するための目的ではなく、出産 前の気分転換のための帰省だったという話もある。

 さて、旅の途中、一行は休息するために、サーラ樹が生い茂るルンビニーの園 と呼ばれる場所に立ち寄ったのだが、そこはマーヤー夫人が輿から降りて散策する ほど、美しい聖所で、一面が満開の花、五色のみつばちが舞い、さまざまな美しい 声の鳥達がさえずりながら飛び回っていたという。
 今では聖地とされているルンビニー園。その園内には、マーヤー聖堂と呼ばれ る堂舎があり、その横には出産する前に沐浴したとされる「プスカリニ池」があ る。沐浴したあとに、マーヤー夫人は、無憂樹(むゆうじゅ)またの名をアショー カ樹の前に立ち止まり、薄黄色の花のその枝を手にしたときに、にわかに陣痛が起 こり、夫人は立ったまま枝を握りしめたまま、のちに仏陀となる男児を右脇腹から 出産したという。このときに、帝釈天(たいしゃくてん)別の名を雷神インドラが 生まれて来た男児を受け止めたという伝承も残っている。
現在、ルンビニー園には、紀元前三世紀、マウリヤ朝第三代の王、アショーカ 王の石碑が立っており、その石碑にはこう記されている。『神々に愛された温容ある王は、即位灌頂(かんじょう)の後、20年を経て、自らここへ来て、祭祀を行っ た。ここで仏陀シャカムニは生まれたからである』仏法を篤く庇護したアショーカ 王は、時代的にはお釈迦様入滅から約200年が経過しているとはいえ、インドの あちこちにはお釈迦様の足跡が残されていた。
  仏陀とは「目覚めた人、悟りを得た人」を指す普通名詞だが、釈迦牟尼とは、
  釈迦族の聖者という意味で、尊称をつけて、釈迦牟尼世尊と呼ぶ。釈尊は、それを略した名称。
 有名な伝承で、誕生したお釈迦様は、四方に7歩ずつ歩み、天地を指して『天 上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と獅子吼(ししく)したと いう。獅子吼とは獅子が吠える意味ですが、獅子がほえて百獣を恐れさせるよう に、悪魔・外道(げどう)を恐れ従わせるところからいわれているようだ。
  お釈迦様の説法とはこのような威厳に満ちあふれたものであるということなん
だろう。
  ちなみに日本で行われる4月8日の降誕会(ごうたんえ)(通称、花祭)で見られるお釈迦様の像は、この誕生のときの姿を表現したものということ。

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 あと、名前に関する前回の補足になるが、ガウタマというのは、サンスクリッ ト語になり、ゴータマは、パウリ語になるということ。インド本土では、4世紀頃 から、サンスクリット語が復興されてきたという現象が影響しているということ、 10世紀以降のスリランカではサンスクリット語の使用が多くなっているという背 景がある。目覚めた人という意味の仏陀ですが、サンスクリットのガウタマ、ある いはパーリ語のゴータマに関してですが、「ガウ」や「ゴー」は牛という意味で、 「タマ」は「もっともすぐれた」となり、ガウタマ、あるいはゴータマは「もっと も優れた牛」というほどの意味にもなるようだ。本名としてはゴータマ・シッダー ルタが、一般的には呼びやすいんだと思われる。ヒンドゥーの考え方をはじめ、イ ンド人は牛といういきものをとても尊重し大事にしているという背景があるよう だ。
 家系の話しに少々ふれておくが、お釈迦様の家系は、古い詩によると、 しばしば太陽の末裔と謳われているということがり、このことを漢訳仏典では、 「日種(につしゅ)族」と言うそうで、太陽の子孫と言うことで誇りとされていたようで、日本の祖先にも天照大神という太陽神が祀られているが、南米のインカ族でも 太陽の子孫とされているのは、共通とみなすと、なにか我々日本人もお國柄を越え て、親近感が持てる。インドの王族というのは、太陽と月のどちらかの子孫という 風に決められているらしく、こうした信仰が後代まで残っているらしい。ユニーク な言い伝えである。
   

  また、お釈迦様の父である浄飯王(じょうぼんのう) というお米にまつわ るお名前から、前回で稲作が行われていた可能性があった話にふれたが、日本もお 米が主食だったことを考えてみると、よかれあしかれ仏教が後に東南アジアには広 まっていたことを考え合わせると、メンタリティの面でも、日本人には仏教は馴染 みやすいという示唆があるようだ。
 紀元前3世紀に全インドを統一したマウリヤ王朝のアショーカ王は仏教を広め ることに尽力した王様としてポピュラーな存在だが、その王様が仏教を広めようと したのは、実は東南方よりも、もっぱら西方、ヘレニズム世界に使者を送ったとい うことだったのだが、結局うまくはいかず、西方では仏教は広がらずに途絶えてし まったようだ。歴史的には西方世界では、自然科学という物質的なアプローチで真 理を探求するというアルキメデス、エウクレイデス、アリストテレスやたくさんの 偉人を輩出してきた経緯は皆さんもご存知のとおりである。
 さて、話しは横道にそれたが、軌道修正するとして、
お釈迦様の出身はカーストでいうと、クシャトリヤ、王族となるわけだが、 コーサラ国という大国に従属していた釈迦族の王子さまだったということで、研究 者の学説によると、支那に伝わった「異部宗輪論」(いぶしゅうりんろん) とい う仏教部派の書物から、釈尊が亡くなり、百二十八年経って、アショーカ王が出た という記載から、誕生は紀元前466年で亡くなったのは386年ということで、 カーボン・デイティングなどを使った決定的な証拠はなく、誕生年や入滅の年も諸 説あるようだ。

 

四門出遊


お釈迦様は、いろんな呼び名があるが、お父さんから名付けられた名前はシッ ダールタ、意味として「目的を達する者」。実母のマーヤー夫人はお釈迦様生誕後、七日で、亡くなってしまい、その妹のマハーパジャーパティを後妻に迎え、お釈迦さまを養育、のちに生まれた弟になるナンダと一緒に愛情豊に育てられた。ちなみ にこのお釈迦様の義母のマハーパジャパティは教団初の尼僧になったと伝えられて いる。
 

 さて、今回は降誕、四門出遊を経て、出家までいきたかったんですが、おもい のほか長くなってきましたので、次回にまわしたいと思う。
 

お釈迦さまストーリー 基本編 其の一

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 お釈迦様ストーリー

 基本編 其の一
 

 カトリックに縁があったわたしは、キリスト教という宗教に出会うためではなく、今では、如 来としてのイエス様の存在を知る為の縁だったのだと思っている。  カトリックの幼児洗礼ということで、早い段階で宗教というものに対して、否応無く考えざる を得ない境遇にあったとも思っていて、人間にとって、果たして宗教心というのは、あるのか、な いのか、宗教心を言い換えると、現代人の多くが過信している科学、その科学的根拠の無い信仰 心といってもよいが、あるとしたらそれは一体なんだろう・・・? と、個人的に関心が深い事柄ではあった。  子どもの頃から、キリスト教の聖書は身近にあったけれども、仏教について、私自身、ほとん ど知識がなかったといってもよい。だが、もともとは日本人の生活にも馴染み深い仏教ではあ る。  歴史的にみても、大和朝廷が誕生して以降、仏教は、日本人にとって身近な存在で、神道の神社 と同様に、国内外問わず観光名所としても、たくさんのお寺に、出向く人も多く世にいう仏像 ファンも案外多いようだ。  だが、一説によると、日本に伝わった大乗仏教は、その後、宗派に枝分かれしていったことで、 本来の原始的なお釈迦様の教えは、所謂、宗教という形式の中に、収まってしまい、本来の正し い形では伝わっていないという話もある。  哲学的な思想として、仏陀の教えを捉えている人もいるだろうし、専門的な様々な視点から、研 究対象にもなっているが、そもそも仏陀の説かれたことを単なる哲学思想としてみることが正しい のかどうか。。あるいは、人生の悩み苦しみの解決策とした方法論として、応用、活用する、と いうことだけに留まり、仏教というものの効用、人間にとっての良薬となるもの、とした捉え方 だけでよいのだろうか、、。  そんな風に湧いた雑念を元に、自分のペースで、焦らずに、きちんとひも解いていきたいという スタンスで、宗教的には『仏教』と呼ばれる仏陀、お釈迦様の教えを、基本的な仏伝をもとにし た豆知識などをまとめながら、復習し、わたしなりに考察していけたらと思っている。
 
 日本では馴染み深い定着した感のある呼び名としてのお釈迦様。  本名はガウタマ・シッダールタと言われる。仏陀というのは、サンスクリット語で、「覚者」「目 覚めた人」を意味し、もともとは、インドにおいて、優れた聖者や修行者に対する呼称だったよ うだ。それが、仏教の世界で使われるうちに開祖としてのお釈迦様自身を指す言葉として、認識さ れるようになった。  お釈迦様は、これまで多くの仏伝や伝説が伝えられており、どこまでが史実なのかはよくわか らなかったらしいが、はっきりと実在の人物だと認められたのは、19世末のことで、現在は、 研究が進み、お釈迦様の生前の姿がある程度わかってきたということで、長く困難な修行の果て に真理にたどり着き、多くの人にその教えを広めたということが明らかになった。
   お釈迦様の生誕地は、ルンビニーというインドとの国境に近いネパール領で、ルンビニーの名 は、いろんな文献に記されていたが、確認されたのは、1896年、インド考古局のアーロイス・ アントン・フィーラーという人物が、この地を発掘調査した結果、お釈迦様の生誕地であること を証明する遺物が多数見つかった。

  主な物に、仏舎利塔というストゥーパから、人骨の入った黄金の舎利容器が発見され、さら に、古代インドのマウリヤ朝代3代の王で、仏教の保護者でもあるアショーカ王が「仏陀がこの 地で誕生したのでルンビニー村の租税を減免する」と刻まれた石柱が地中から発見された。  昔の人々は、『釈迦八相図』と呼ぶ絵物語で、お釈迦様の生涯を学び、其の生涯を4から8場 面もしくは12場面に分けて図説しており、中国において現在のような形式に整えられた。一般的 には、降兜率、托胎、降誕、出家、降魔、成道、説法、涅槃というテーマに別れ、それらが、天、 人、仏の三相で構成されている。
 
 というわけで、 最初は降兜率ということで、標高6656mのチベット地区にあるカイラス山は、世界の中心にそび える須弥山(しゅみせん)と見なされていて、菩薩たちの修行場である『兜率天』は、其の頂上 の遥か上空にあるとされ、そこから、お釈迦様はこの地上に降りて来たといわれる。兜率天で は、将来、『仏』となることを目指して修行に励む菩薩たちが、地上にくだる時を待っていて、お 釈迦様も、地上に生まれる直前にはこの兜率天で菩薩として修行をしていた。伝説によると、お 釈迦様が地上に降りたあとの兜率天では、弥勒菩薩が修行を続け、56億7000万年後に如来 として下生するとされているのは、有名な話。
 次に托胎。  『神秘的な霊力』という意味のマーヤー、お釈迦様の実の母親、別称摩耶夫人(まやぷにん) の胎内に宿るシーンで、『霊夢托胎』といわれ、この『霊夢』とは、摩耶夫人がお釈迦様を身ご もった時に、みた不思議な夢を指す。  今から約2500年前、ヒマラヤ南麓にあるカピラヴァストゥ、カピラ城という釈迦族の中心 地で生誕、父は釈迦族の王、シュッドーダナ、浄飯王(じょうぼんおう)、母は近隣のコーリヤ族 から嫁いだマーヤー、摩耶夫人。カピラ城の実際にあった場所としては、ネパールのティラウラ コットか、インド北部のピプラーワーが、候補地となっている。  父の名であるシュッドーダナは、清い米飯という意味から、当時の釈迦族が住むカピラ城周辺 は、やや肥沃な土地で、広く稲作を行っていたという推測もあるようだ。  お釈迦様の母である摩耶夫人の霊夢に話しを移すと、伝説によれば、天から6本の牙を持つ白 い象が降りて来て、彼女の周囲を右回りに3度回った後、右脇腹から胎内に入ったという。ちな みに、右というのは、インドでは何事においても右が神聖視されているからだという。  翌朝、其の話を聞いた王は、国中のバラモン(祭司)や賢者と呼ばれる学者を呼び集め、夢解き をさせてみたところ、「王妃は懐妊され、生まれてくる子は男子で、成長すれば、世界を統治する 天輪聖王(てんりんじょうおう)となり、もし出家したら、仏陀、悟りを開いた者となる」これ を聞いた王はもとより、国民は喜びに沸き立ったほどで、ただし、お釈迦様が天輪聖王として、 世界を治める存在になるという期待のほうが大きかったようだ。 注:統治の輪を転がす王の意。インドのジャイナ教徒,ヒンドゥー教徒仏教徒の間で考えられて いた武器を用いず正義だけで世界を統治する全世界の理想的帝王である。仏教では,この王は三 十二相という瑞相をそなえ,七宝 (輪,象,馬,珠,女,居士,主兵臣) をたずさえ,四徳 (長 寿,無病息災,好顔,宝が蔵に満つ) を兼備するとされる。仏典では仏の代名詞とされることがあ る。また仏の説法を輪宝を転がすのにたとえ,転法輪という。
   また、余談だが、摩耶夫人にあった『霊夢』に関しては、より古い伝承によると、この夢の出 来事は、夢ではなく、現実にあったことだと、現存する石像などから、推察されてもいるらしい。 余談ついでに、インドにおける象に関する背景にふれておく。
             
  陸上における最大の動物・象は、インドでは〝動物の王〟として尊ば れている。その力の強さゆえ、古来運搬や戦争の時にも力を発揮した。     お釈迦さまも「戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、 われは人のそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからで ある」と、象の忍耐強さを讃えて、その徳を説いている。  色素が欠乏して白色で生まれる個体が時折見られるが、特にこの白象 を神聖視する。白象は支配者であることを示す7つの宝物の一つとされ ています。さらに、象は畏敬(いけい)の対象として仏典にもたびたび 登場する。
 

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  更に私的な余談になるが、わたしは、生まれてこの方、こんな夢をみ た記憶がなかったのだが、2021年明けてからすぐに、自分が白い立 派な象の横に並んで、落ち着いたでも喜びに満ちたような表情を浮かべ て、どこまでも続く道を、ゆったりと共に歩いている夢をみた・・・。   そのときのわたしは、今まで生きてきて、味わったことがないくらい に、清々しい心持ちで、晴れ晴れとして、日常生活では感じたことのな いような感じだったので、目が覚めた際に、ほんとうに、気分がよかっ たことを、ずっとありありと記憶していて・・・今年はいいことがある のかな?と珍しくポジティブな感覚になったし、日常でネガティブな気 分になってきたら、其の夢の感覚を思い出すようにしていて、また、学 びモードに切り替えるときの、自分のなかでのよいイメージとなってい る。
 
・・・・というわけで、今回は、このへんで。 次回は、降誕、出家をテーマとする。