お釈迦さまストーリー 基本編 其の三

 お釈迦様ストーリー 其の三

                                2021年10月25日

四門出遊 出家について

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   お釈迦様の実母であるマーヤー夫人は、生後ほどなくして亡くなって、マーヤー 夫人の妹である養母に育てられながら王族の一員として、カピラ城で文武に渡り、 お釈迦様は英才教育を受けることになる。古い仏典には、お釈迦様の幼少時のこと はあまり出ていないようだが、後代の仏伝に、彫刻などで表されるようになった。 お釈迦さまの習った学問は実学であり、当時のバラモンのする学問はヴェーダ聖典 を丸暗記することで、先生が暗唱することを聞きながら憶えるという学問だった が、お釈迦様のした学問は、文字をかいて暗記する学習法だったようだ。

 紀元前800年頃に西アジアフェニキアからインドに文字が入って来ていて、主 に、商人が文字を使用していたとし、古代のインドで商人が多かったのは、仏教徒ジャイナ教徒だったようで、実学は商業に使われていたということで、お釈迦様 は、実学を学校で習っていたようだ。今でいう家庭教師のような人を宮殿に呼んで いたわけではないのは、興味深いところである。
 お釈迦様の暮らしは物質的には大変豊かに恵まれていたようだが、宮殿から外出しようとはせずに、その心には無常感が満ち、苦悩が深まるばかりだったらしい。
 パーリ語聖典から、後年のお釈迦様の若かりしころの追憶を述べたシーンから引用しよう。
「私はいとも優しく柔軟であった。」
これは、身体が柔弱で華奢であった、というくらいの意味らしい。
「わが父の屋敷には蓮池が設けられており、そこには、あるところには青蓮華が植 えられ、あるところには紅蓮華が植えられ、あるところには白蓮華が植えられて あったが、それらはただわたしを喜ばせるためになされたのであった。私は良い香 りのするカーシー(ベナレス)産の栴檀香(せんだんこう)以外は決して用いな かった。私の被服、下着もカーシー産であった。邸内を散歩するときにも、寒さ、 篤さ、塵、草、夜露が私に触れることのないように、実に私のために昼も夜も、白 い傘蓋(さんがい)がかざされていた。その私には三つの宮殿があった。一つは冬 のため、一つは夏のため、一つは雨季のためのものであった。それで私は雨季の 四ヶ月は雨季に適した宮殿において、女だけの伎楽に取り囲まれて、決して宮殿から降りたことはなかった。他の人々の屋敷では、奴僕、庸人、使用人にはくず米の 飯に酸い粥をそえて与えていたが、私の父の屋敷では、奴僕、傭人、使用人には白 米と肉との食事が与えられていた」と回想されている。 
   インドでは蓮の花がとても珍重されており、めでたい縁起のよいお花であって、 また、お金持ちの家の池は蓮池だったようだ。余談だが、インドの池の形は日本と は異なり、真四角だったということ。日本の池は、主に不規則な形だが、シンメトリカルかとかは、民族により、審美眼がちがうのかもしれない。我々日本人は、不自然というか、人工的に感じてしまいがちな気がするが。
 日光の直射が強いインドやスリランカは日傘があたりまえのようで、高貴な方の 場合はお付きの人が上から傘をさしかけるようだ。そのアイデアは仏教にも取り入 れられて、お寺の仏様の上には傘蓋がかけられている。
 とにかく、お釈迦様は身分が高い子どもにありがちだが、気が優しく、身体は強 いわけではないということは、大切な跡取り息子として温室育ちのように育てられ ていたんですね。。
 そして、恵まれている立場に関わらず、お釈迦様は、宮殿の暮らしに漫然とした 憂いを感じていた。人によっては、何故、お金持ちの家に生まれて、憂鬱な気持ち が起こるのか、、理解しがたい方もいるかもしれない。でも、やはりお釈迦様は年 若い時点で、既に、人生の本質をわかっていらしたように思う。
 その憂いを絶つために、父王は、お釈迦様が16歳のときに、従兄弟のヤショーダラーと結婚させた。ちなみに妻であるこの方の名前の意味は「名誉、誉れを保つ」で、実際の名前かどうかは説がいろいろあるようだが、意味自体は、なんとなく、自尊心が高い人のイメージをもってしまいますね、、。まあ、どうなのか。(後に彼女も息子もお釈迦さまに帰依して解脱します)
 婚姻の年齢に関しては、我々の感覚ではあまりに早婚な気がしますが、昔は寿命 の長さも関係して、所帯をもつのは若いほうがよかったのかもしれないし、
 あるいは、高校生くらいなら性の目覚めの時期、特定の女性との結婚は生物学的な 意味でも、理にかなっていたのかもしれない。青春の悩みなんてなものは、特定の 女性との交流がその憂さをはらせるものだろうと考えたというのは、王であっても ひとりの父親としての愛情だったのかもしれない。
 だが、お釈迦様は、当然ながら普通のティーンエイジャーとは違っていた、その 頃から、既に人間の本質について深い思索や考察、洞察力が長けていた。
 

 有名なエピソードでカピラ城の四つの門を出たときの話がある。

  はじめの東の門を出たら、外でやせ衰えた、杖をついたよぼよぼの老人に出くわ したことで、老いの苦しみを知り、南の門を出ると、重病で苦しむ男がいて、そこ では病の苦しみを知り、更にあるとき西の門を出たら、その外では死者を前に嘆き 悲しむ人の姿を見て、死の恐怖を知った、、。そうした三つの苦しみを父に打ち明 けると、王は息子が苦しみを忘れられるように、連日饗宴を開き、城門には常に見 張りを置き、その行動を監視したが、お釈迦様はその監視の目を逃れ、北の門から 出てみたら、そこでひとりの出家者、修行者と出会い、世俗を捨てることで、苦し みから離れたその姿に、強く心を動かされたという。
 これが『四門出遊』のお話ということで、たんなる伝説でまとめられた話かどう かはわからないが、お釈迦様という人は、早熟であり、若いときから物思いにふけ り、生命の本質というものを深く思索され、また外の木陰にあって、静かな瞑想を 習慣にされていたように思われる。
  さて、ここから『出家』に入っていきますが、若く美しかったであろうヤショーダラー夫人も、一人息子のラーフラも、お釈迦 様を世俗の人として、永久にとどめておく力はなかったようだ。優しいお釈迦様は 当然、愛情の人ではあったとは思うけれど、真理の探究という大仕事、それに到達 するということは、普通の家庭生活の営みのなかでは、かなり難しい面があったこ とは、わたしのような凡人でも容易に想像はつく。家庭というのは、漢字では家の 庭とかくように、寛げる居場所をさすわけで、修行者が寛いでいられる、というの は、やはりちょっと無理があるように思う。苦行は必要は無いとわたしは思うけれ ど、真理の探求や解脱、悟、という道は、家庭人の安楽とはやはり異質な場である ように感じる。求道者にとっては、家庭はある意味では、その営みにおいて要求や 欲求に対する無用な自己犠牲を強いられる場にもなりかねないからだ。
 お釈迦様の憂鬱は、このまま真理を探究しないで、家族の愛情に応えるだけで、 あるいは権力のある立場で、歓楽をほしいままにできる今生の人生を終える事に対 する一種の焦燥感だったのかもしれない。
 29歳のときに、ついにお釈迦様は、俗世から離れる決意をされた。一説には、宮殿のそこかしこに、踊り疲れた侍女たちが、あられもない姿で寝入っていた姿をみたお釈迦様は、一時の快楽の虚しさを痛感し、また死骸のように横たわる侍女達の様子に死を観じて、出家を決意したとも言われているようだ。ただ、古い聖典にはこのことはあまり出ていないようだ。

  出家した時の状況は、お釈迦様自身、次のように述べられている。
「比丘らよ、私は実に道を求める心を起こして後に、まだ若い青年で会って漆黒 の髪あり、楽しい青春に満ちていたけれども、人生の春に父母が欲せず、顔に涙を 浮かべて泣いていたのに、髪とヒゲをそり落として袈裟衣をつけて、家を出て出家 行者となった」
 昔のインドでは、人生には三大目的、あるいは四大目的があるといわれていて、 愛欲、実利、義務、解脱ということらしいのだが、解脱が入っているところは、興 味深いところ。現代のインド人はどうなのかは、わからないが、日本人の高齢者の 感覚のなかに、晩年はお寺参りや神仏を拝んでこの世を終えようとという方が多い とは思えないが、どうだろうか。
 『カウティリヤ実利論』という本によると、妻子、親族に対する扶養の義務を規 定しており、妻子に物を分たずに出家する事を禁止しているのだそう。お釈迦様も この規定には従って出家されたのだと思われるが、お隣にはコーサラ国の脅威など もある中、一族の将来を考えてみたら、いずれ釈迦族の王になる人が出家するとい うのは、かなり勇気のいる決断だったように感じる。
「自分は善を求めて修行の生活に入った」と古い詩の文句にあるそうだが、その「善」というのはもとの言葉で「クシャラ」というそうで、「有能」という意味もあるということで、「人生のほんとうの意義を追求する」などの意味にも解されるということである。
 そうして、お釈迦様は、ある晩にかねてからの望みを実行する。御者チャンナに 命じ、ひそかに愛馬カンタカを用意させ、就寝していた妻ヤショーダラと息子ラー フラに別れを告げると、御者と共に静かに城を後にした。城の門は1000人の兵 士に護られていたというので、気づかれずに出るのは大変だっただろうと想像がつ く。それからお釈迦様はアヌーピヤ林に入り、身につけていた装飾品を外して妻子 にと託し、別れを惜しむ御者と愛馬を城に返し、林の奥に分け入って地元の猟師の 粗末な衣装と自分の衣を交換し、剃髪師に髪を落としてもらい、師を求めて修行の 旅に出発した。もちろん、父王はその出奔を嘆き悲しみ、幾度も息子を説得し連れ 戻そうとしたが、お釈迦様の決意は固く、その思いを覆すことはできなかった。
 

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では、本日はここまでとし、次回は出家後のお釈迦様の修行生活の動向を追って いき、降魔成道に入っていきたいと思う。