お釈迦さまストーリー 基本編 其の二

 2021年10月2日

 

お釈迦様ストーリー 其の二

 今回はお釈迦様ストーリー其の二ということで、大まかに降誕と出家にまつわ るお話になります。
 お釈迦様がこの世に誕生したのは、紀元前463年頃と言われている。日本で も里帰り出産など昔からあるが、お釈迦様の母親、マーヤー夫人も、コーリヤ族の の暮らす故郷、デーヴァダハに戻りたいと、夫のシュッドーダナ王に申し出、周到 な準備のもと、帰省することになった。従者に輿を担がせ、多くの侍女や警護の従 者を伴わせたようだ。

 

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 一説によると、里帰りは出産するための目的ではなく、出産 前の気分転換のための帰省だったという話もある。

 さて、旅の途中、一行は休息するために、サーラ樹が生い茂るルンビニーの園 と呼ばれる場所に立ち寄ったのだが、そこはマーヤー夫人が輿から降りて散策する ほど、美しい聖所で、一面が満開の花、五色のみつばちが舞い、さまざまな美しい 声の鳥達がさえずりながら飛び回っていたという。
 今では聖地とされているルンビニー園。その園内には、マーヤー聖堂と呼ばれ る堂舎があり、その横には出産する前に沐浴したとされる「プスカリニ池」があ る。沐浴したあとに、マーヤー夫人は、無憂樹(むゆうじゅ)またの名をアショー カ樹の前に立ち止まり、薄黄色の花のその枝を手にしたときに、にわかに陣痛が起 こり、夫人は立ったまま枝を握りしめたまま、のちに仏陀となる男児を右脇腹から 出産したという。このときに、帝釈天(たいしゃくてん)別の名を雷神インドラが 生まれて来た男児を受け止めたという伝承も残っている。
現在、ルンビニー園には、紀元前三世紀、マウリヤ朝第三代の王、アショーカ 王の石碑が立っており、その石碑にはこう記されている。『神々に愛された温容ある王は、即位灌頂(かんじょう)の後、20年を経て、自らここへ来て、祭祀を行っ た。ここで仏陀シャカムニは生まれたからである』仏法を篤く庇護したアショーカ 王は、時代的にはお釈迦様入滅から約200年が経過しているとはいえ、インドの あちこちにはお釈迦様の足跡が残されていた。
  仏陀とは「目覚めた人、悟りを得た人」を指す普通名詞だが、釈迦牟尼とは、
  釈迦族の聖者という意味で、尊称をつけて、釈迦牟尼世尊と呼ぶ。釈尊は、それを略した名称。
 有名な伝承で、誕生したお釈迦様は、四方に7歩ずつ歩み、天地を指して『天 上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と獅子吼(ししく)したと いう。獅子吼とは獅子が吠える意味ですが、獅子がほえて百獣を恐れさせるよう に、悪魔・外道(げどう)を恐れ従わせるところからいわれているようだ。
  お釈迦様の説法とはこのような威厳に満ちあふれたものであるということなん
だろう。
  ちなみに日本で行われる4月8日の降誕会(ごうたんえ)(通称、花祭)で見られるお釈迦様の像は、この誕生のときの姿を表現したものということ。

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 あと、名前に関する前回の補足になるが、ガウタマというのは、サンスクリッ ト語になり、ゴータマは、パウリ語になるということ。インド本土では、4世紀頃 から、サンスクリット語が復興されてきたという現象が影響しているということ、 10世紀以降のスリランカではサンスクリット語の使用が多くなっているという背 景がある。目覚めた人という意味の仏陀ですが、サンスクリットのガウタマ、ある いはパーリ語のゴータマに関してですが、「ガウ」や「ゴー」は牛という意味で、 「タマ」は「もっともすぐれた」となり、ガウタマ、あるいはゴータマは「もっと も優れた牛」というほどの意味にもなるようだ。本名としてはゴータマ・シッダー ルタが、一般的には呼びやすいんだと思われる。ヒンドゥーの考え方をはじめ、イ ンド人は牛といういきものをとても尊重し大事にしているという背景があるよう だ。
 家系の話しに少々ふれておくが、お釈迦様の家系は、古い詩によると、 しばしば太陽の末裔と謳われているということがり、このことを漢訳仏典では、 「日種(につしゅ)族」と言うそうで、太陽の子孫と言うことで誇りとされていたようで、日本の祖先にも天照大神という太陽神が祀られているが、南米のインカ族でも 太陽の子孫とされているのは、共通とみなすと、なにか我々日本人もお國柄を越え て、親近感が持てる。インドの王族というのは、太陽と月のどちらかの子孫という 風に決められているらしく、こうした信仰が後代まで残っているらしい。ユニーク な言い伝えである。
   

  また、お釈迦様の父である浄飯王(じょうぼんのう) というお米にまつわ るお名前から、前回で稲作が行われていた可能性があった話にふれたが、日本もお 米が主食だったことを考えてみると、よかれあしかれ仏教が後に東南アジアには広 まっていたことを考え合わせると、メンタリティの面でも、日本人には仏教は馴染 みやすいという示唆があるようだ。
 紀元前3世紀に全インドを統一したマウリヤ王朝のアショーカ王は仏教を広め ることに尽力した王様としてポピュラーな存在だが、その王様が仏教を広めようと したのは、実は東南方よりも、もっぱら西方、ヘレニズム世界に使者を送ったとい うことだったのだが、結局うまくはいかず、西方では仏教は広がらずに途絶えてし まったようだ。歴史的には西方世界では、自然科学という物質的なアプローチで真 理を探求するというアルキメデス、エウクレイデス、アリストテレスやたくさんの 偉人を輩出してきた経緯は皆さんもご存知のとおりである。
 さて、話しは横道にそれたが、軌道修正するとして、
お釈迦様の出身はカーストでいうと、クシャトリヤ、王族となるわけだが、 コーサラ国という大国に従属していた釈迦族の王子さまだったということで、研究 者の学説によると、支那に伝わった「異部宗輪論」(いぶしゅうりんろん) とい う仏教部派の書物から、釈尊が亡くなり、百二十八年経って、アショーカ王が出た という記載から、誕生は紀元前466年で亡くなったのは386年ということで、 カーボン・デイティングなどを使った決定的な証拠はなく、誕生年や入滅の年も諸 説あるようだ。

 

四門出遊


お釈迦様は、いろんな呼び名があるが、お父さんから名付けられた名前はシッ ダールタ、意味として「目的を達する者」。実母のマーヤー夫人はお釈迦様生誕後、七日で、亡くなってしまい、その妹のマハーパジャーパティを後妻に迎え、お釈迦さまを養育、のちに生まれた弟になるナンダと一緒に愛情豊に育てられた。ちなみ にこのお釈迦様の義母のマハーパジャパティは教団初の尼僧になったと伝えられて いる。
 

 さて、今回は降誕、四門出遊を経て、出家までいきたかったんですが、おもい のほか長くなってきましたので、次回にまわしたいと思う。