お釈迦さまストーリー 基本編 其の五

 2021年11月18日 


  お釈迦様 ストーリー其の五 ~転法輪、涅槃


  今回は、いよいよこのお釈迦様ストーリーは、転法輪と涅槃に入って行きたいが、もしかしたら、涅槃は次回になるかもしれない。
 

 お釈迦様は、菩提樹の下で、悟りを開かれた後、49日に渡り、その境地を深 めて、永遠の輪廻転生から解脱した喜びを独り、楽しまれたと言われている。悟っ たあとのお釈迦様は、揺るぎない確かな境涯となられたが、しかし、そのあまりの 深遠で、難解な境地をいかにして人々に伝えればよいのか前途を悲観され、そのま ま入滅しようと考えられた。その様子をみていたブラフマー梵天はすぐにお釈迦 様のもとに降り立ち、生ある限り、その真理を広めてもらえるように、入滅を思い とどまってもらえるように、懇願したのだという。お釈迦様も、広く人々を導くこ とが使命があるのだと思い直して、その座を立ち、説法活動に入られていった。
 お釈迦様が最初に真理を説こうと思い浮かべた相手は、かつてともにウル ヴェーラーの苦行林で修行をした5人の苦行者たちだった。(一説では、お釈迦さまの父王が、護衛につけた5人とも言われている)

 5人はベナレス郊外のサールナート、鹿野園にいて、お釈迦様が彼らの元を訪 ねると、「堕落した者は、去れ」と、お釈迦様の訪問を強く拒んだが、悟りを開い たあとのお釈迦様のもつただならぬ威容に圧倒された5人は、いつしか座を差し出 して、教えを乞うようになった。
この記念すべきお釈迦様の最初の説法を、初転法輪といって、仏教では、説法 のことを転法輪という。
 ちなみに、本筋から逸れるが、付け加えで話すと、このサールナート、鹿野園 は、お釈迦様の4大聖地のひとつに挙げられている。
サールナート、鹿野園は前3世紀から1500年の長きにわたり、仏教の教育 センター的な場所として栄えたが、13世紀くらいからイスラム勢力による破壊が 続き、土に埋もれた遺跡が発掘されたのは20世紀初頭であるという。サールナー トの象徴的な存在である、外壁レンガの一部に美しい幾何学模様や樹枝文様の彫刻 が残っているダーメク・ストゥーパは、6世紀頃の建立と言われている。 


   さて、話しを元に戻すと、、
  この最初にお釈迦様の説法を聞いた5人は、もともとある程度の境地に達した
修行者だったので、たちまちに、お釈迦様と同様の悟りに到達し、その場で帰依す
ることを誓っている。
 そうして、お釈迦様は、こののちに、50年もの長きにわたり、マガダ国の首 都であるラージャグリハ、王舎城の竹林精舎を拠点として、各地を遊行されて、多 くの弟子を育てた。
『釈迦八相図』には、その詳細は描かれてはいないが、仏伝によれば、お釈迦 様の名声はたちまちに広まり、千数百人もの弟子が集まったといわれている。
  ヤサという名の金持ちの子どもを出家させ、その4人の友人も出家修行者とな
る。のちにその友人50人も出家。
その伝導の旅のなかで、次第に集いというものを神聖視するようになり、仏、 法、僧の三宝が成立したという。「僧」というのは、元は集いや団体というほどの 意味のようで、サンガは僧の音を写したもの。仏教徒三宝に帰依するということ が最低の条件になっているのだとか。
  初期仏教では、「三帰五戒」と言われ、三宝に帰依することを「三帰」。「五
戒」とは、殺すなかれ、盗むなかれ、邪淫を行うなかれ、偽りを語るなかれ、酒を
飲むなかれ、の5つということ。一生を終えるまで、五戒を守るということ、これ
が、仏教徒の名目的にもベーシックなスタンス。
 お釈迦様の十大弟子の最初の弟子になったのは、当時のインドで文明の進んで いた王舎城にて、舎利弗と目連が教団にはいってきた。このふたりは、もともと、 懐疑論者のサンジャヤの弟子だったらしく、お釈迦様の弟子であったアッサジとい う人が王舎城のなかに、托鉢として入って来た際に、聞いた説教がもとで帰依する ようになったということ。そのとき説かれたのは、因縁の教えらしい。ちなみに、 懐疑論者のサンジャヤはどんなことを説いていたかというと、「あの世があるとか 世界は有限か無限か、というような解決できないことを議論しても無駄だ、考える のをやめてしまおう」といった感じのことらしい。判断中止というようなスタンス。現代人でも、こうした考えに偏る方も案外多いような気もする。
   舎利弗と目連がお釈迦様の門下に入ったとき、ふたりと同門であったサンジャヤの弟子250人が二人に従い、仏教に帰依したのだとか。
  このことは、懐疑論を乗り越えたということとみなすこともできると、仏教学者の中村元さんは著書のなかでかいている。以下引用すると


「ああでもない、こうでもないと、ぬらりくらりしていたのでは、すべての人を 説得しうる確信をもたせる教えとはなり得ない。そういう無駄な議論からは離れ て、真の生き方を求めるところに、釈尊のよりどころ、立場があったのだ」と。
  お経を読むと、お釈迦様は弟子1250人とともにありきという文句がよくでてくるそうだが、250人は先にあげた弟子たちで、のころ1000人は、カーシャパ三兄妹の弟子ということ。この三兄弟は、火をあがめるバラモンだったが、やはり、お釈迦様の教化を受けて、改宗したわけだ。
 このことはやはり、お釈迦様の教えが、バラモン教も乗り越えたことを示し、 当時あったそれらの自由思想をも、凌駕したところから、仏教は出発しているとい うことのようだ。
  ちなみに、機会があればまた伝えたいが、先にあげた二大弟子に続き、迦葉(かしょう)須菩提(しゅぼだい)富楼那(ふるな)迦旃延(かせんねん)阿那律(あなりつ)優婆離(うばり)羅睺羅(らごら)阿難陀(あなんだ)が十大弟子に入る。
 お釈迦様は、舎衛城(しゃえじょう)にも長く滞在されたりしていた。舎衛城は サーヴァッティーというようで、コーサラ国の首都。その郊外に小高い丘があり、 そこが祇園と呼ばれる場所。
祇園」の由来は、舎衛城のジェータ太子の所有で、漢訳では「祇陀(ぎだ)太子」 そこを当時の長者であったスダッタという人がお釈迦様に寄進したいと思い、土地 を買ったというエピソードが残されている。その情景は現在カルカッタの博物館に 彫刻としてあるようだ。
「精舎」というのは、精進するための家、修行の家の事を指す。

  これで、教団の拠点ができ、祇園精舎があることで、岩窟の中とか、樹の下に 住み、雨季には信者の家に泊まらせてもらっていた修行者たちの生活の場ができた ということになる。
このことは当時のインド経済の状況をも示唆されていて、土地の売買が行われ ていたということで、貨幣経済が発展しつつあり、民間に王権と張り合うだけの経 済力をもった資産家が現れていたということ。仏教は、四民平等を唱えていたの で、商人階級に受け入れられるのにも適していたという事情もあるようだ。

   また、お釈迦様は、アングリマーラという盗賊まで、帰依させたという伝説もあるようで、伝道にまつわるいろいろなエピソードをもとに、お釈迦様ゆかりの場所を旅することは、今生の功徳になるのかもしれない。

  予想したとおり、涅槃にはたどりつけなかったので、次回に機会を得たいと思う。
  ご覧いただきありがとうございました。。